2015年1月1日木曜日

ひ弱な徒花「日本」

 朝、起きるまでの間、夢見心地でつらつらと物思いに耽ってみました。

 1970年(昭和45年)11月25日、三島由紀夫は憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけ、直後、割腹自殺をした。なぜ、このような凶行に及んだのか。あの首のない臓物が飛び出した自身の遺体を他人に晒すことに何の意味があるというのか。そこまでの覚悟があれば遙かに効果的な別の選択肢があったのではないだろうか。
 1932年(昭和7年)、井上日召は「一人一殺」「一殺多生」を説き、血盟団事件を起こした。井上など比ぶべくもないカリスマである三島はその生を全うしてこそ本懐を遂げられたはずである。三島であれば井上のように収監されることもなかったろう。身代わりならいくらでも用意できるからである。

 1972年(昭和47年)、三島にとって一世一代の大舞台となる「日中国交正常化」が一部の狂信者によって推し進められようとしていた。これにより日本はその歩みを100年止めることになるとてつもない危機に直面していたのである。三島は当然これを全力で阻止する。三島の意を受けた「部隊」が日本・支那の双方で要人の暗殺を実行し、「日中国交正常化」は海の藻屑と消え去るのである。その後も三島は21世紀初頭まで影響力を持ち続け、政治家の質を向上させることに大いに貢献したのである。なぜなら、下手な事を言えば命を取られるとなれば、真面目に国家のことを議論せざるを得ないからだ。そして、NHKの「シルクロード」も朝日新聞による「慰安婦捏造報道」も存在しない。そんなことを強行しようものなら、NHK会長も朝日新聞社長も何人いても間に合わなくなる。

 1960年(昭和35年)10月12日、浅沼稲次郎が日比谷公会堂で17歳の右翼少年に刺殺されて以来、我が国において政治家の暗殺は起きていないが(民主党衆議院議員 石井紘基の件、長崎市長 伊藤一長の件については興味がないので無視する)、緊張感なく我が身を肥やすことのみに夢中になり国家のことなど眼中にない有象無象が蔓延る国会、国民に奉仕する気などさらさらなく、天下り先探しにご執心の官僚、日本の常識が通用せず、特亜の防火壁に成り下がった法曹三者等の姿を見せつけられれば、少々の緊張感に溢れ、正直者が馬鹿を見ない、真っ当な社会の到来を強く希望する。

 1970年(昭和45年)当時、45歳の三島の思考を辿ることは出来ないが、血盟団事件をどのように捉えていたのか。そんなことより何より、三島は余りにも「死」に捕らわれ過ぎていたように思える。

 「日本には反日的言論の自由は無限にある。日本のことをいくらでも悪く言うことができるし、嘘、捏造でわが国を貶めても国会が紛糾することはない、マスコミも騒がない。一方、親日的言論の自由は極めて制限されている。『日本の国はいい国だった』と言っただけで、国会は紛糾しマスコミは大騒ぎである。」という田母神俊雄氏の発言により、「始末すべき相手はひとりやふたりではないな。とても間に合わないな。」という結論に至り、私の妄想は終わりに近づく。しかし、これだけは言える。日本人は、上から押さえつける、決して抗えない圧倒的な力、しかも正義に裏打ちされた力で導かれないと正しい道を歩むことは出来ない。(三島の「暗殺部隊」、「天皇崇拝」はこの力のひとつの例になると思う。)個人に任せていても決してひとつに纏まることは出来ない性分なのだ。

 幸か不幸か、ヤクザの力を遙かに凌ぐ三島率いる「暗殺部隊」は現在の日本には存在しない。今後も存在しないだろう。今のままでは、数百年後、「嘗て、20世紀から21世紀初頭にかけて長い伝統と優れた国民性により繁栄した日本という国があった。」と語られる日が来ないとも限らない。

 日本はひ弱な徒花で終わるのだろうか。

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